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インドネシアで出産を望むも、情勢不安定から日本で出産することとなったデヴィ夫人。
一刻も早くインドネシアに戻り親子での生活を夢見ていたものの・・
スカルノ大統領が終身大統領からただの大統領へと・・
辞退は日に日に悪くなっていく一方だったのです。
フランスへの亡命!そして・・
インドネシアに帰国することもできず、日本に居ればマスコミによる追廻しとバッシングで心休まる時間がなかったデヴィ夫人。
そこでデヴィ夫人は政治的な流刑者に寛容なフランスへの亡命を決意します。
フランス社交界で東洋の真珠と呼ばれる
1960年代、まだまだ西洋人の東洋人差別というのが今以上に激しいものがありました。
ヨーロッパやアメリカなどでは白人でないだけでお店に入れなかったり、
バスの前の方に乗れないことも少なくない時代でした。
ましてや日本人は第二次世界大戦でフランスと敵対していたので、普通の日本人ならば受け入れてもらうのも難しいところだったと思いますが・・
そこはやはりデヴィ夫人
デヴィ夫人の
・美貌
・知性
・財力
・地位
などはそんなものを諸戸もせずに、フランスの社交界でデヴィ夫人はひっぱりだこになります。
大統領夫人=マダム・ラ・プレジドン の称号は強かったようです。
またデヴィ夫人はフランス語の勉強を続けていたため、コミュニケーションには困らず、毎日社交界のパーティーに呼ばれる華やかな生活を送ったそうです。
夫の危機、でもインドネシアに帰れない・・
フランスに亡命し、1年がたったころ遂にスカルノ大統領は「大統領の地位を剥奪」されてしまいます。
住んでいた宮殿からは追い出され、大統領を慕って傍にいた幹部も共に幽閉されてしまいます。
その知らせはパリで受け取ったそうですが、その時「胸がつぶれる思いだった。」と回想されています。
何度も何度もインドネシアに入国することを試みたそうですが、いつも「命の保証ができない。」と止められてしまったのだそうです。
最愛の夫の危機に何もできない歯がゆさというのは・・胸が潰れますね・・。
死を覚悟でインドネシアへ
しかしある日の朝、新聞に夫の顔が載っていました。
出会ったころのような逞しく、キラキラしていたころの面影はどこにもなく・・
今にも死にそうな顔・・
いてもたってもいられず、何が何でも入国するという決意で、フランスを発ちました。
友人は「あなたは気が狂ったの!?インドネシアに行けば殺されるよ。」と止めたそうですが、
「殺されても構わない、夫を一目見て殺されるなら本望」という強い決意で行ったそうです。
シンガポールで大使館職員に「入国許可はできない。」と言われたそうですが、
「自分の国に入るのになぜ許可がいるのですか?」と食い下がり、もし殺されることがあるのなら「敵の手ではなく、自分の手で娘の命を絶つことができるように。」と祈ったそうです。
娘を敵の手に渡すのだけは絶対に阻止するという固い決意での入国だったそうです。
あのテレビで歯に衣着せぬ発言、なんにでも果敢にチャレンジできるのは、このような修羅場を掻い潜ってきていらっしゃるからなんですね。
夫の死、新しい人生へ
入国してからは、スカルノ大統領のいる病院へ直行・・。
しかしそこで見た夫の姿はまるで別人・・。
その姿にデヴィ夫人は泣き叫んだそうです。
「留まって看病したい。」と願いでるも許されず、強制的に病院から連れていかれ、別荘に移されたそうです。
しかし、デヴィ夫人が訪れた翌日、デヴィ夫人と最後に会えるのを待っていたのでしょうか?スカルノ大統領は亡くなってしまいました。
スカルノ大統領の葬儀はスカルノ大統領から送ってもらった「ヤソオ宮殿」で行ったそうですが、久しぶりの家は荒れ果て、無残な状態。
お葬式の最中も、どさくさに紛れて宮殿から物を運びだす人がいたりしたそうです。
その後ヤソオ宮殿は没収され、デヴィ夫人のインドネシアでの財産はすべて国に没収されてしまいます。
しかし、そこで負けないのがデヴィ夫人・新しい人生へと強く歩いていきます。
続きはこちら→デヴィ夫人の壮絶人生その4
デヴィ夫人のプロフィール
名前:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ
旧名:根本七保子
生年月日:1940年2月6日
年齢:80歳(2020年10月時点)
出生地:東京
国籍:インドネシア
身長:159㎝
日本出身で唯一外国人大統領の妻になった女性です。
2020年にはYoutubeチャンネルも開設し、Twitterも使いこなされています。
テレビでもネットでもますます注目を集めているデヴィ夫人です。