デヴィ夫人の若い時が超きれい!!現在と比較!!【壮絶な人生をまとめました!】その1

今や日本のテレビをにぎわせる存在として欠かせないデヴィ夫人。

今年で何と御年80歳。

しかし80歳とは思えない活力とその美貌!!

女性の憧れですよね!

そんなデヴィ夫人の80歳おめでとう!!も込めまして、このブログではデヴィ夫人の壮絶でドラマチックな人生を画像と共にご紹介いたします。

貧しい家庭に生まれる

デヴィ夫人こと、ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノRatna Sari Dewi Sukarno)さんは、

1940年に日本の東京で生まれます。

父親は大工だったそうですが、第二次世界大戦の真っただ中、家庭は非常に貧しく食べるのがやっとの生活を送っていたそうです。

空襲がひどくなったため、田舎に疎開していたそうですが、よそ者ということで「防空壕に入ると冷たい視線や、なんで入ってくるんだ?」というような言葉を浴びせられたのを幼心ながら覚えているそうです。

成績優秀の学生時代

戦争が終わっても相変わらず貧しさは変わらなかったそうですが、お母さんを喜ばせたい一心で勉学には非常に熱心に取り組んだそうです。

小学校、中学校とも成績は常にトップを維持していたそうです。

絵も非常に上手だったそうで、学芸会で紙芝居を描くのはいつもデヴィ夫人の役目だったそうです。

しかし一方で家が貧しかったのが理由だったのか、小学生の時は学芸会の劇に出させてもらうことはできなかったそうです。

「劇には先生方から依怙贔屓されているお金持ちの子供ばかり選ばれていました。」

あからさまに先生がお金持ちの生徒をひいきにしている場面も多く見てきたそうです。しかし「それが不幸だなんて思ったことは一度もありません。貧しい境遇に生まれたことはラッキーであり、神からのギフト」と語っています。

そういう境遇で育ったからこそ、努力に努力を重ね、今の成功を手にできたと思われているようです!

デヴィ夫人が大統領夫人が務まったのも実は美しさだけではなく、勉強家で努力家の才媛だからなんですよね。

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貴重な学生時代の一枚!ハーフ美人ですね!!

合格率1%未満の超難関試験を突破!!

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成績優秀だったので、高校進学にはなんの問題もなかったそうで、周りも高校に進学するものとばかり思っていたそうですが・・

「少しでも家計の助けになりたい。」という思いから働くことを決意したそうです。

デヴィ夫人が中学を卒業したころというのは「中卒=工場勤務」というのが常識だったそうですが、デヴィ夫人は「自分の力を活かしたい、試したい、自分ならもっとできる。」

と何か確信があったのか「千代田生命」という超大手の会社の試験を受けます。

合格率1%未満という超難関の試験で採用されたのはたったの3人だったそうで、しかもそのうちの2名は縁故採用だったので、実質試験を受けて受かったのはデヴィ夫人だけだったということです。

千代田生命には「英会話の試験」というものがあったそうなのですが・・

当時日本人で英語が話せるのは特別な人たちだけだったのですが、

学校での勉学に加え、当時外国人と文通と近所に住んでいた外国人と英語で話していたため、当時からデヴィ夫人の英語は非常に堪能だったそうです。

「わたくしの流暢な英語に驚いた面接官の顔に『わたくしは選ばれる』と確信しました。」

と本で語っていますが、この時はスカルノ大統領とまだ出会ってもない時期です。

「自分で運命切り開くパワー」

とデヴィ夫人は言っていますが、今でもエネルギッシュなデヴィ夫人の源はここにあるのか!!っと感じますね。

そして家計をさらに裕福したいと思っていたデヴィ夫人は、昼休みや土日や休みの日を利用して、喫茶店でアルバイトをし、

夜は定時制高校に通ったり、役者になりたいと思っていたため、演劇スクールに通ったりするなど・・いつ寝てるのかわからないような多忙な生活を送っていたそうです。

あの優雅でお金持ちな姿からは想像もつかないですね。

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超高級クラブコパカバーナで働く

会社の仕事も女優の卵としての活動も徐々に軌道に乗っていったそうです。

名作「24の瞳」ではエキストラとして出演したり、浅丘ルリ子さんと共演したこともあったそうです。

そんな中ある人の紹介で「クラブ・コパカバーナ」を訪れた際、そこのオーナーと親しくなり、働くようになったのだそうです。

ソース画像を表示

写真はイメージです。

クラブ・コパカバーナと言えば当時随一の社交場とも言われ、90%のお客さんが海外の要人という場所でした。

そんな場所ですから、そこいにる女性というのはモデルのような容姿に、知性にあふれる素晴らしい女性ばかりのところだったそうです。

17歳でデヴィ夫人はここで働くようになります。

社交界に必要な立ち振る舞いやウィットに富んだ会話を学び、VIP客に気に入られていったそうです。

デヴィ夫人はフランス語や英語、インドネシア語が堪能なのだそうですが、クラブで働きながらそういったことも勉強したそうです。

平均月収18000円の時代に一晩で10000円!?

ちなみに1950年代から1960年代初頭の日本のサラリーマンの平均月収は18000円でした。

しかしこのクラブで働く女性はの日収は10000円だったそうです。

ここで働き始めたのにも訳があったそうで、

「貧しい家に生まれ、食べることにも苦労したわたくしは、少しでも多く働いて家計を助けたかったのです。あとはお金とは別に3つの目的がありました。」

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その1つ目

生きた英語を学ぶこと

デヴィ夫人曰く、「英語は教科書で勉強したってダメ。実際にビジネスの場で活躍しているビジネスマンと話すことで、リアルな英語を身に付けたかったのです。」

英語がまだ日本人のビジネスでそこまで重要視されていなかった時代に先見の明があったということですね!

2つ目

「自分で独立してお店が出せるぐらいの資金を調達すること。」

今でも何を気にすることなく自分の言いたいことがはっきり言えるのは「自立しているから。」とおっしゃっていますが、このころから独立、自立志向があったんですね。

3つ目

「花嫁修業として、華道は草月流、茶道は裏千家、日舞は花柳流を習得すること。」

デヴィ夫人の美的センスや立ち振る舞いの美しさはこういった努力から生まれているんですね!

17歳から19歳まで働きながら、こういったことを学び「世界に出るチャンス」をうかがっていたそうです。

もちろんクラブでは世界の大富豪からプロポーズを受ける日々だったそうです( ´∀` )

19歳でスカルノ大統領に見初められる

そんな美人で知的好奇心は溢れるデヴィ夫人を見て、「これは・・。」と思った人がいたそうです。

その人物が東日貿易の社長、久保正雄という男性だったそうです。日本の戦後賠償事業などを請け負っており、インドネシアと深くかかわっていた人物だったそうなのですが、

その人に「会わせたい人がいる。」っと言われ、なぜかその言葉を信じ、あれほど高給だったクラブ・コパカバーナの仕事をすっぱりやめてしまったのだそうです。

(直観が鋭いというか・・思い切りが良いというか・・)

ある日久保正雄氏と映画を見るという約束をし、帝国ホテルのロビーで待っていると

軍服を着た外国人が、「ミスター久保はミーティングが長引いていて遅れるので、貴方もお茶会にどうですか?是非来てください。」と誘われ、連れられるがままに、上の階へといったそうです。

スカルノ大統領との初対面

連れて行かれた先で出会ったのが、

あのスカルノ大統領です。

イスラム帽を被り、クラブでたくさんの大富豪、立派な男性を見てきたデヴィ夫人でしたが、もっと偉大なオーラを感じたのだそうです。

またスカルノ大統領も一目でデヴィ夫人を気に入ったのだと、デヴィ夫人自身も確信していたのだそうです。

英語で談笑し、大統領が帰るときは羽田空港までお見送りに行ったそうで、その時に大統領から固い握手をされたそうです。

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二週間のつもりが…

スカルノ大統領がインドネシアに帰った後、

なんとなく寂しいような淡い期待のような気持ちを抱きながら生活を送っていたそうですが、

ある時スカルノ大統領から手紙が届き、「あなたの写真を送って欲しい」

と言われ、

会った時も素敵な方だったそうですが、手紙もまた素敵だったそうです。

デヴィ夫人は日本が、インドネシアへの開発援助を行うための、「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領のもとに行きます。

お母さんと弟さんを置いて行くのは辛かったそうですが、それ以上にスカルノ大統領に惹かれてしまったそうです。

これも運命ですね。

私のインスピレーションになってください。

運命が導くままにインドネシアに渡ったデヴィ夫人。

当時はインドネシアまで行く飛行機はなく、香港まで飛行機で行った後、船でインドネシアへ。

熱帯の暑さ、オランダ統治時代の名残が残る美しい街並みと反比例した、貧しい人々の姿は今でも心に焼き付いているそうです。

インドネシアでスカルノ大統領と再会したデヴィ夫人。

忙しい政務の合間を塗って、スカルノ大統領はデヴィ夫人をバリ島へ連れて行ってくれ、

そこでプロポーズをされたそうです。

その時の言葉が、

私のインスピレーションとなり、力の源泉となり、私の人生の喜びになってください。」

何とも美しい言葉ですね。やはり大統領になる方というのは、選ぶ言葉も美しいものなんですね。

プロポーズによって、二週間のつもりで来たのに、8か月間の間、インドネシアに留まることになります。

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ズボン禁止の生活!?

スカルノ大統領にはデヴィ夫人の他にも3人奥さんがいたそうですが、殊の外デヴィ夫人は愛されていたと今でも自負があるそうです。

そうですよね。

外交の場にはいつもデヴィ夫人を連れていて、他の奥さんは全く表には出てきていませんでした。

美しく聡明なデヴィ夫人がスカルノ大統領にとっては自慢だったに違いないですね。

そして当時スカルノ大統領は、終身大統領(死ぬまで大統領)という、かなり強い権限を持っていました。(後にはく奪されます。)

そのためデヴィ夫人には、豪華な屋敷と身の回りの世話をする召使がたくさん与えられ、もっと言うと日本料理を作ってくれる料理人、服をデザインしてくれるデザイナーなどもいたそうです。

インドネシア語やフランス語を学びながら、何不自由ない生活を送っていたそうす。

スカルノ大統領は、ズボンがデヴィ夫人の美しさを半減させてしまうからと、ズボンを履くのを禁止にしたという話が残っています。

そんな生活の中でも日本にいるお母さんと弟のことはいつも気がかりだったそうです。

プロポーズから8か月後に日本に一時帰国できたわけですが…

その後がさらに数奇で壮絶な人生になっていきます。

続きは②で→https://hebi-hi-me.com/2020/10/14/post-5553/

デヴィ夫人のプロフィール

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名前:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ

旧名:根本七保子

生年月日:1940年2月6日

年齢:80歳(2020年10月時点)

出生地:東京

国籍:インドネシア

身長:159㎝

日本出身で唯一外国人大統領の妻になった女性です。

2020年にはYoutubeチャンネルも開設し、Twitterも使いこなされています。

テレビでもネットでもますます注目を集めているデヴィ夫人です。




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