日韓関係は戦後最悪と言われるほど冷え切っていますね。
日本政府の韓国を「ホワイト国から外す」という対応や、
韓国政府の「日本との交流の取りやめ」など様々な応酬が繰り広げられています。
さて、日本人の多くの人が疑問に思うと思うのですが、
韓国人ってなんでそんなに執拗に謝罪だ、賠償だ、韓国は日本より優れてるって言いたがるの?
って思う方も多いと思います。
それには、中華思想、儒教の教えや歴史がかなり絡んできます。
できるだけわかりやすくまとめてみましたので、ご参考にどうぞ。
中国が世界の中心という思想
現在の中国の土地に文明が始まって以来、その土地の恵みにより、中国はアジア周辺に強大な影響力を持つ国のとして、王朝が変わりながらも歴史を刻んできました。
中国の王朝は殷王朝から始まり、周、秦、漢と100年単位で、王朝が目まぐるしく変わっていきましたが、
王朝が変わっても、変わらない思想が中国にはありました。
それは「中華思想」と呼ばれるものです。
中華思想とは、世界の中心は中国であり、そこから離れれば離れるほど野蛮な国家であり、世界は中国に従うべきであるという思想です。
(なんか今もあまり変わってないような気もしますね。)
中華思想から脱却した日本、中華に従った朝鮮半島
さて、そんな日本も中華思想の中に入っていた時期もあります。
例えば、邪馬台国の女王卑弥呼は中国から、倭の国の王と認められ、金印が送られたことは魏志倭人伝に書いてあったり、
飛鳥、奈良時代の国づくりは中国の律令制を参考にして作られたものでした。
しかし、かの有名な聖徳太子は、日本を中国の属国としてではなく、独立した国家と認めさせるために、
遣隋使にかの有名な国書を持たせます。
「日いづるところの天子、日没するところの天子にご挨拶申し上げます。」
この手紙は歴史の教科書にも取り上げられ、学校では「日が沈むところだなんて失礼だ!」っと言って、隋の皇帝が怒ったと教えられることが多いですが、
実際は、「なんで東の果てにある小さな国が天子なんて名乗ってるんだ?生意気なんだよ!!!天子と名乗っていいのは中国の皇帝だけだ!」
っという感じで怒っていたんです。
中国の皇帝はかなり激怒したと伝えられていますが、そんなことは聖徳太子もお見通し!
どんなに激怒して日本を従わせたくてもそれができないことが聖徳太子にはわかっていました。
なぜなら
・日本は海を越えていかなければ攻め入ることができない。
・当時隋の周りにもいろいろ国があって、それとの駆け引きで正直日本に攻め入る余裕もない。
・国書によると日本はかなり発展しているかもしれない。下手に手を出すと危ない(・・と中国皇帝は考えるだろう。)
っという目論見が聖徳太子にはあったので、かなり大胆な国書を持たせて遣隋使に持たせました。
(遣隋使からしたら命がけだったでしょうがね・・。)
かなり激怒した皇帝でしたが、
「今日本を従わせるのはちょっと無理だろう・・。」っと考え、
日本の天皇家が「天子」を名乗ることを認めます。
遣隋使も特にお咎めなく日本へ帰国しました。
これは中国が世界の中心にあった当時の世界から考えるとかなり特異な例でした。
これにより日本はその後、中国の文化は受け入れつつも日本独自の文化や制度を発展させていくことになります。
聖徳太子があの国書を送らずに、中華思想の中に組み込まれていたら今の日本はなかったかもしれませんね・・。
一方、朝鮮半島は中国からの支配を1910年に行われた日韓併合がなされるまで、1500年以上受け続けます。
その支配とは
・中国皇帝が朝鮮半島の王の任命権を持つ。皇太子も中国の許可がなければ擁立できない。
っという状態でした。
さらに朝鮮王朝第三代 世宗大王が平民でも使える文字を作ったにも関わらず、
「漢字以外の文字は認めない。」
っという当時の支配層から嫌われ、結局朝鮮王朝400年の歴史の中で広まることはありませんでした。
(実は日韓併合以後に広く使われるようになった文字です。)
そんなわけで、朝鮮半島では中国に従うこと、より強いものに従うことが習慣になっていきました。
中華に近いほど良いという中華思想
中華思想というのは先ほども言った通り
「中国に近いほど文明的で洗練されている良い場所。中国が世界の中心、世界は中国のもの。」
っと端的にいうとそんな思想です。
中華思想から見れば、朝鮮半島は中国に接していて日本より中国に近い。
そして日本は自分たちより後に中華思想の中に入ってきた弟分、
儒教の思想では子が親に逆らうこと
弟が兄に逆らうこと、歯向かうことは許されません。
また女は男に従うべき存在であり、女性は一人前の人間としては見られません。
(ただし母親の権威はかなり強いものがあります。)
日本はその中華思想、儒教の序列を破ってきた・・っと言ったところでしょうか。