津田梅子の友達 大山捨松の生涯、経歴、功績④




優秀な成績を収め、日本のため何かしようと高い志を持って帰ってきた捨松でしたが、

日本に帰国するなり厳しい現実に直面し、失望感を隠せませんでした。

さてどんなことだったのでしょうか?

日本語をかなり忘れていた

アメリカにいた時も、共に留学していた永井茂子らと日本語で話したり手紙でやり取りをするようになどしていたそうですが、やはりアメリカにいて日本語を使うことはまずなく、

一応話せるには話せるけど、かなり怪しい日本語で、漢字の読み書きは皆無になっていました。

アメリカに育ち、立ち振る舞いもアメリカのレディになっていた捨松を、周りの人は「アメリカ娘」と揶揄したそうです。

スポンサードリンク
 

政府は女子留学生の就職先をまったく考えていなかった。

帰ってきた男子留学生には然るべきポストを与えていた日本政府も女子のことは後回しというか、全然考えておらず、帰ってきて活躍しようにも、活躍する場がなく、悶々とした日々を送りました。

しばらくたって伊藤博文から「華族女学校で生物や理科を教えよ」っという依頼が来ましたが、

捨松には問題がありました。

そう!日本語の読み書きが不自由だったので、ことわざるをえなかったのです。

その後も捨松は生涯日本語には不自由することになります。

アメリカに行ったのは11歳でも忘れちゃうんですね。

スポンサードリンク

おまけ 結婚観エピソード

アメリカから帰国した時点で捨松は20歳を超えていました。

これは当時の日本の結婚観から考えれば、婚期を過ぎており、いわば行き遅れてでした。

アメリカ帰りの捨松には、洋行帰りの男性何人かが求婚しましたが、捨松は断っています。

その時母は、

これではもうあなたは結婚できない。」

っと嘆いたそうです。

捨松はこのことをアメリカの友人に「日本では20歳を超えれば行き遅れたおばさんという扱いを受ける。信じられない」っと書き送っています。

当時日本では結婚は親が決めるものでしたから、それを断る捨松は当時の人から見れば、かなら異様な娘だったでしょうね。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。