津田梅子の友達 大山捨松女史の生涯 性格 経歴②




新5000円札に選ばれた津田梅子と共にアメリカに留学し、生涯の友人で会った大山捨松女史、大山巌陸軍卿夫人の生涯や功績についてまとめました。

賊軍会津藩出身者として、捨松の家族も不遇な境遇に強いられます。

捨松は会津戦争のあと、縁あってフランス人の家庭に預けられたこともあり、そのフランス人夫婦は捨松の利発さに驚いたと言われています。

(子供このころから優秀だったんですね!)

さてそんな不遇な境遇の中・・

捨松の兄、山川健次郎があの有名な岩倉使節団の中の官費留学生に選ばれます。

当時、旧幕府側として賊軍の汚名を着せられた家の子弟たちは、これが名誉挽回と思い、留学生に志願し身を立てて抵抗とする若者が多くいました。

明治政府も優秀であれば旧幕府側であっても留学生として連れて行ったのは偉いところでしょうね!

スポンサードリンク

11歳で女子留学生に

さてこの岩倉使節団の官費留学生には女子の留学生の募集もありました。

当時、女性は家に生きるものでした。家で妻として、母として家のために尽くす・・。それが女性の生き方でした。

女性が一人で遠くに行くこともまずありませんでした。

ましてや女性が学問を究めるために留学するなんて青天の霹靂!!ぐらいの勢いです。

しかし会津藩出身という不遇の身から立ち上がるには、目の前にチャンスにはがむしゃらに挑戦しなければなりません。

捨松の父は、これがチャンスであること、また最新の知識を得て帰ってくることは今後の日本のためでもあることを娘に説き、娘を説得・・。

咲子は留学生に志願し、

見事に咲子は留学生に選ばれます。

わずか11歳のことです。

(ちなみに女子留学生に選ばれたのはすべて旧幕府側の娘たちでした。)

この時に咲子の母は、一度お前を捨てたもの思って、日本でいつ会えるかわからないけど待っているよ、っという意味で捨松と改名させたそうです。

今みたいに飛行機もない中、娘を遠い異国にやるなんて、母の気持ちは如何許りだったか。

本当に身が切れるような思いだったに違いありません。

しかしこの決断はその後の日本にとって大変重要な意味を持ちましたので、こちらも捨松のご両親には感謝ですね!

スポンサードリンク

岩倉使節団について

江戸幕府が倒れた後、明治政府は新しい国作りのため、欧米列強に負けないためには、欧米の進んだ技術を日本に取り入れることが急務と考え、アメリカに留学生を送ることを決めます。

この使節団を送る前に、アメリカを訪れていた黒田清隆は、アメリカでは女性も男性と同じように働き、生き生きと社会で生活している姿に感嘆し、日本が文明国となるためには、女性にも教育が必要だということを、岩倉具視に進言し、岩倉具視もその意見に賛同し、女子留学生を募りました。

留学費、生活費、学費は全て官費でまかない、お小遣いも付いているという破格の待遇にもかかわらず、女子留学生の応募は最初は0でした。

そのため、二度目の募集を旧佐幕派の家族にも広くかけ、ようやく五人の女子留学生が集まったのです。

山川捨松はその中の一人だったといわけですね!

新5000円札に選ばれた津田梅子と共にアメリカに留学し、生涯の友人で会った大山捨松女史、大山巌陸軍卿夫人の生涯や功績についてまとめました。東洋人女性初の学位取得者、日本人女性初の看護師免許取得者でもあるかなり偉大な女性です!
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。