津田梅子の友達 大山捨松女史の生涯 性格 経歴①




新5000円札に選ばれた津田梅子女史については、あの津田塾大学を創設した人物なのでよく知られていると思います。

しかし明治から昭和にかけて梅子に勝るとも劣らない活躍をした女性がいます。

その方こそ大山捨松(旧姓山川)

「大山捨松」の画像検索結果

あの津田梅子と共にアメリカに留学し、明治から昭和にかけて、自分の持てる力を全てを発揮して日本という国のために生きた女性です。

津田梅子が女子教育に全てを捧げた人生なら、

大山捨松は、女性ならではの立ち位置から、

明治日本、文明開化の日本で活躍した女性と言えるでしょう。

その彼女の生涯に迫ってみました。

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賊軍とされた会津藩の娘として

大山捨松、幼名咲子は1860年、江戸時代末期の会津藩の藩士の家に生まれます。

綾瀬はるか主演、大河ドラマ【八重の桜】をご覧になった方や歴史に詳しい方は会津戦争や江戸幕府崩壊後の事をご存知だと思いますが、

会津藩は最後の最後まで幕府側についていたため、明治維新後は賊軍として扱われ、会津藩出身者は不遇な扱いを受けていました。

(会津藩出身のために優秀でも出世できないなんてことはよくありました。)

会津藩は決して賊軍になりたかったわけではないし、

藩主の松平容保は忠孝を貫く誠実な人柄であったそうです。

「松平容保」の画像検索結果

しかし、時代の流れを読めなかったのか、読んでも徳川家に殉じようとしたのかはわかりませんが、

徳川家の人間として最後まで戦ったがために「賊軍」という汚名を着せられます。

本当なら賊軍の汚名を着せられるような人ではなかったはずです。

咲子も会津戦争を経験しており、あの会津城に籠城していたそうです。

(あの八重さんも籠城して戦った会津若松城です!)

当時8歳でしたが、母と共に握り飯を作ったり、怪我人の看護にあたったそうです。

また「焼弾押さえ」っと言って、まだ爆発していない弾を濡れた布団で抑えると、爆発を抑えられるというかなり危険な任務ににもあたっていたのだとか・・。

(その危険な任務の最中に大けがをしたこともあったそうです。)

籠城戦も虚しく、会津藩破れ、城を明け渡し、会津藩の藩主も民も流刑になります。

また会津戦争では白虎隊の悲劇が有名です。

*白虎隊=会津戊辰戦争時に結成された10代前半の若者たちで結成された部隊。城が焼け落ちたと思い、(本当は焼け落ちていなかった。)ほぼ全員が切腹して自害した悲劇。

会津の恥になってはならないと、敵が攻めて来る前にと、多くの女性(子供も含む)が自害しています。

なので捨松はかなり残酷で厳しい人間の争いを見た幼少期であったはずです。

新5000円札に選ばれた津田梅子と共にアメリカに留学し、生涯の友人で会った大山捨松女史、大山巌陸軍卿夫人の生涯や功績についてまとめました。
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