新5000円札の女性 津田梅子の生涯・性格・功績⑥




1900年

梅子はついに行動を起こします。

当時の女性の職業としては破格の給料をもらっていた華族女学校を辞職。

学校開設へと行動を起こします。

背景には高等女学校令や、私立学校令などが整い女子教育の機運が高まってきたこともあります。

理想の教育を行うため

理想の教育を行うため梅子がやったことは、

政府などからの資金援助は一切受けないこと

身分に(華族、士族、平民など)問わずうけいることでした。

資金援助を受けると教育方針などに口を出されます。

なので資金繰りは非常に厳しかったそうですが、梅子はめげませんでした。

学校開設にあたり、共にアメリカに留学した、

大山捨松(旧姓山川)や

父の仙吉、

アリス・ベーコンなどがかなりの支援を行ってくれたことや、

アメリカ時代の友人などは無報酬で働いてくれたこともあり、厳しいながらもなんとか運営していきます。

(大山捨松は当時の陸軍卿であった、大山巌夫人になっており、その立場をうまく使って女性の地位向上のための活動を行なっていました。)

女子英学塾(現在の津田塾大学)の教育

1900年7月に、女子英学塾がついに完成し、梅子の理想とする教育が始まります。

「女子英学塾」の画像検索結果

開校当時の英学塾。開講当時の校舎は戦争で焼けてしまった。

当時の花嫁修業の習い事の延長の域を出なかった多くの女学校に比べ、高度な学問を教える場、世界に通用する英語を教えてくれる学校として、かなり有名になります。

一方、かなり厳しかったそうで、脱落者を多数出したそう。

しかし、ここを卒業した学生たちは、質の高い英語教師として、日本各地に巣立って行きました。

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当時のエピソード

梅子はかなり厳しい先生だったようで

授業自体は当初三時間だったそうですが、

  • 予習復習を2時間ずつしないとついていけない内容
  • 間違いは何度でも直す
  • 辞書で適当な訳が見つかるまで教室から出れない

など当時のお嬢様学校から考えるとかなり厳しかった模様です。

今でも津田塾大学は名門女子大学としてその名をはなせている理由がわかりますね。

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生涯独身

そんな女子教育に一生を捧げた梅子でしたから、生涯結婚はしませんでした。

当時未婚の女性に対する風当たりは今以上に強かったはずですが、勇気を持って生涯独身を貫いています。

(自分の甥を養子にはしています)

結婚していない女性を一人前とみなさかった当時の日本で、未婚でも一人前だと主張できるだけの功績を残し、1929年に脳出血で亡くなります。

梅子が女子教育に捧げた一生があったおかげで、女性でも男性でも然るべき教育を受ければ社会で活躍できると証明してくれた偉人ですね!

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