新5000円札の女性 津田梅子の生涯・性格・功績③




10数年という年月をアメリカで過ごし、最新の女子教育を受けてきた梅子は、学んだことを活かそうと意気揚々と日本へ帰りますが、

梅子の前には大きな壁が立ち塞がりました。

さてどんな壁だったのでしょうか

日本語をすっかり忘れていた

梅子は六歳でアメリカに渡り、17歳で帰国するまで、日本語を使うことはなかったので、日本語をすっかり忘れていたのです。

そんなわけで家族との会話もままならず、日本語を思い出すまでは、家族との会話は父の拙い英語で行なっていたそうです。

(今でさえ日本で日本語がわからないと困るのに、当時はもっと困ったに違いないですね。)

また梅子は洋服を着ていたため、周りの人から奇異な目で見られることが多かったそうです。

当時男性の洋装化は少しずつ浸透していましたが、一般庶民の間では女性の洋装化は進んでいませんでした。

また男性の断髪は進みましたが、女性の断髪はするべきではないとのお達しも出ています。

(いつの時代も男性は自分が良くても女性はだめなんですねえ・・。)

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思った以上に女性の活躍の場がなかった。

梅子達が留学したのは、先進国には優秀な女性世の中で活躍している。

または文明国には優秀な母親を育てるが優秀な男子育てるので、優秀な母親となる女性を育てることが必要だということでしたが、(でもやっぱり女性は母親になることが前提の教育なんだなぁ。)

男子留学生には帰国後には然るべきポストを与え、活躍の場を与えていた政府も女性のための場は全く考えていませんでした。

それどころか、「女性に高等教育を与えたのは時期尚早すぎた。」っと女子留学を進めた政府の役人も思っていたそうで、せっかく帰ってきた梅子に活躍の場はありませんでした。

それどころか、梅子の年齢(17歳)は当時の日本の結婚適齢期と考えられていたため、親は結婚を勧めてくるばかりでした。

(赤とんぼでは15でねえやは嫁に行ってますからね・・。)

そんなすすめは一蹴にしていた梅子でしたが、アメリカではあったそれなりの自由がなくなり、憂鬱で悶々とした時間を過ごすことになります。

当時のアメリカでも、まだ女性の選挙権や参政権はありませんでしたが、一個人としての自由はあり、一人で出かけたり、自分の意見を述べたり、仕事に就いたりすることはできました。

しかし、日本では外出することも自由にならないし、自分のお金というのを持たせてもらえないということに、梅子はかなり衝撃を受けます。

女性が意見を持つことは許されず、ただ家のことを考え、家のことだけを厳しく訓練さら、それなりの年になったら結婚して、また夫に従うだけという当時の日本女性の人生を梅子は変えなければならないと深く決意します。

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当時の男尊女卑

1867年、大政奉還が終わり、日本は明治という新しい時代に入り、文明開化と政府はうたっていました。

しかし、女性の地位はむしろ江戸時代の儒教の名残を引きずったことと、男尊女卑の激しい薩摩藩が政権をとったことで、江戸時代以上に男尊女卑になったとも言えるでしょう。

江戸時代でも男尊女卑はありましたが、それは武家のしきたりや家の後継に関してのことが多く、一般庶民の夫婦関係は男女平等、または女性の方が強いことも多々ありました。

(男女共働き、子育てをするのが当然で、今でいうイクメンじゃないと男は結婚できなかったそうです。江戸時代は男性の方が人口が多かったことから恋愛は女性優位に進みました。)

しかし明治で憲法や民法が定められた時、

女性は男性の従属的存在として明文化されました。これは江戸時代とは大きく異なる点です。この時点で女性は法律的には無能なものとして扱われるようになります。

女性は父や夫の許可がなければ、法律的に必要なことは何もできないと憲法で定められてしまったのでした。

新5000円札に選ばれた津田梅子女史の生涯をまとめました。アメリカから留学して帰り、華族女学校の教師として赴任した梅子でしたが、その教育の実態にまたもや失望します。
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