https://hebi-hi-me.com/2019/03/19/post-1044/
オリンピック代表へ
さて世間の冷たい目やバッシングにも負けず彼女は練習に励み、オリンピック代表の座をつかみます。
*当時彼女のライバルで美人で有名だった寺尾正・文姉妹は、親によって強制的に引退させられています。
理由は美人で注目の的となった彼女たちを題材にした恋愛小説が話題となり、父親が「娘たちが見世物になった!」と激怒したからだと言われています。
人見さんが「引退を撤回してほしい」っと懇願しに行っても、父親は「お言葉ですが、女性は家において温順であればいい。」と言い放ったと言われています。
まあ、時代が時代の発言ですね・・。女性の人生とは家庭にあるべき・・そんな時代が二人を競技生活の絶頂から引きずり降ろしました。

出典:Wikipedia かわいい笑みをたたえる双子の姉妹。確かに人気になりそう
アムステルダムオリンピック、本命の100mでまさかの予選敗退
1926年に朝日毎日新聞社に入社後も、仕事と運動を両立させ、様々な大会に出ながら人見さんは1928年に行われたオリンピック代表の座をつかみます。
エントリー種目は
100m 800m 走り幅跳び 円盤投げでした。
ただし本命は100mのみで、走り幅跳びは実際に行われることはありませんでした。
800mも本来余裕があれば出るというぐらいのものでした。
しかし人見さんは緊張のせいか100mの準決勝4着で敗れ、決勝進出を逃してしまいます。
800m出場の決意
本命の100mで敗れた人見さんは、「800m」に出場させてほしいとコーチに懇願します。
コーチは「だめだ、余裕があれば800mも出そうと思っていたが、今の君では無理だ。」と言いましたが・・
人見さんは泣きながら「このままでは日本に帰れない、何としてでもお願いします。」と懇願し出場します。
死闘の末に
800mの予選を何とか通過したものの、順位は下から2番目。
それでもここでやるしかないと腹をくくった人見さんは、800m決勝に挑みます。
人見さんはもともと短距離選手で、中距離の800mの経験があまりなかったことを考えれば、予選を突破しただけでもすごいですが、ここでメダルをとらなきゃ帰れないという思うが人見さんにものすごい力を与えます。
最後の100mではもう足が引きちぎれるぐらいだったという回想がありますが、
コーチの「足が動かなくなったら手をふれ!」っという言葉を思い出し、最後の力を振り絞ります。
結果800m決勝は2分17秒6でドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、人見は日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となりました。
ちなみに1位のラトケさんと人見さんがゴールのあと失神するという壮絶なものだったので、1956年オリンピックまで女性競技としては廃止されていました。
メダルの後の、若すぎる死
オリンピックでメダルをとった後、しばらく競技を休みましたが、1年後には再開し、講演活動や後進の育成にも力を入れました。
しかし、講演活動や仕事、資金集めなどの超多忙の毎日を送る中で、体調は徐々に崩れていきます。
多忙な毎日な上に、大会結果について世間が冷たく批判する中で心身共に深く傷つき、胸膜炎を発症し入院。(いつの時代も世間は勝手ですよね!自分は大会に出てもいないのに、優勝以外は価値がないみたいな。)
治療もむなしく1931年8月2日、24歳という若すぎる年齢でなくなりました。
この日は人見さんがメダルを獲得した3年後のことです。
忘れてはいけない功績
若くして亡くなった彼女ですが、彼女の功績は後世に伝えるべきです。
人見さんがメダルを獲得して以降、
日本の女子選手によるオリンピック陸上競技のメダリストはバルセロナオリンピック女子マラソンで有森裕子さんが銀メダルを獲得するまで64年間獲得がなく。
男女を通じたオリンピック陸上競技トラック種目でのメダリストは、北京オリンピックで男子4×100mリレーで日本チームが銀メダルを獲得するまで80年間出現せず、
トラック種目の銀メダルはリオデジャネイロオリンピック(2016年)男子4×100mリレーで日本チームが獲得するまで88年間出現しなかった。
っという歴史的事実を見ると、彼女は日本の陸上史に残る英雄です!
彼女の功績をしのび、今後の日本陸上選手の活躍を祈ります!
その時歴史が動いたです。最後のエンディングだけですが、感動的です。